【編集後記】忖度とAIによる圧倒的無気力感 —— それでも書くしかないライターの置き手紙

最近、原稿を書く手が止まる。

書きたいことは山ほどある。言葉にしたいものは頭の中にちゃんとある。でも、無気力になってしまう——なぜなのか。

それは、書いても届かないからだ。

調整された言葉の行き先

「報道の自由」とは何だろうか。権力に対して自由にものを言える権利。長いあいだ、疑いもなくそう信じてきた。現場に行き、取材対象に確認を取り、原稿を書き、公開の可否が“調整”されるプロセスを何度も通るまでは。

書いてはいけないとは言われない。ただ、「このままでは出せない」と言われる。

少し表現を和らげてほしい——。文脈を整えてほしい——。この主語は大きすぎる——。結論の角度をもう少しだけ——。

その「もう少しだけ」を何度か繰り返すうちに、現場で自分が感じたものは、きれいに消えていく。代わりに残るのは、誰も傷つかない文章だ。そして誰の記憶にも残らない文章でもある。

予定調和、という言葉がある。最初から着地点が決まっていて、そこに向かって原稿が整えられていく。正しいかどうかではない。波風が立たないかどうかだ。

関係者の立場。今後の取材。組織としての整合性。全部分かる。理解もしている。理解しているからこそ、削られていく過程で反論しきれない自分がいる。その結果、熱だけが行き場を失う。

これは検閲ではない。もっと合理的で、もっと”正しくて”、そしてどうしようもなく息苦しい構造だ。自分の目で見たものを、自分の言葉で書く。それだけのことが、いつからかとても難しくなった。

書き上げた原稿が、まったく別の文章になって戻ってくる。角が取れて、熱が抜けて、誰のものでもない言葉に置き換わっている。もうそれは私の文章ではない。

そこにジャーナリズムはあるのだろうか。現場で感じた空気も、データから読み取れる課題も、構造的な矛盾への指摘も、全部なかったことにされている。残ったのは、誰も傷つかなくて、誰も覚えていない、整った言葉だけだった。

現場は、本当はもっと泥臭いし違和感もある。納得できないことがあれば熱量や感情がある。だけど、それは原稿の中には残らない。残るのは、起承転結が正しくて、配慮が行き届いていて、関係性も壊さない、整った文章。そこには一切の“問題”がない。

そして、現場もない。

——それ、AIでよくないか。

ここまで来ると、ふと思ってしまう。

AIは整った文章を書くのがうまい。角が立たない。構成も破綻しない。配慮もできる。何かあればネットで晒し上げられる時代。そんな時代が求めているのが「問題のない原稿」なのだとしたら、悩みながら書く人間は、いちばん非効率な存在だ。

現場で立ち止まる。言葉を選ぶ。書いては消す。その時間は、成果にならない。数秒で出力される“正しくてきれいな文章”のほうが評価されるのなら、書き手が無気力になるのは、もう仕方がないことだと思う。

以前、この編集後記で「月額3,000円の相棒が大活躍」みたいな話を書いた。AIが便利すぎて手放せない、構成のブラッシュアップも校正もアイデア出しもこなしてくれる最高の相棒だって。

あの頃の私はまだ、AIを「自分の能力を拡張してくれるツール」だと思えていた。

今はどうか。AIは画像を生成し、動画を生成し、記事すら書く。しかもそのクオリティが笑えないレベルに到達している。1時間かけて構成を練って、取材して、推敲を重ねた原稿より、AIが数秒で吐き出した文章のほうが「読みやすい」と言われることがある。SEO的にも、AI生成の記事が検索上位に来ることすらある。

Webメディアを眺めていると、明らかにAIが書いたであろう記事が増えている。サムネイルもAI生成。本文もAI生成。取材すらしていない“こたつ記事”のAI版が量産されて、それが人間が汗をかいた記事と同じ土俵で、同じかそれ以上のPVを稼いでいる。

何を書いても調整されるのなら、最初から調整済みの原稿を書けばいい。それは妥協ではない。ただの最適化だ。そして、その最適化の先にあるのは、書き手としての虚無感だ。

SNSのほうが健全に見えるという絶望

SNSには整っていない言葉がある。雑で、乱暴で、配慮も足りない。でも、熱量だけはある。

面白くないものには面白くないといえる。美味しくないものには不味いといえる。少なくとも誰かに投稿内容を書き換えられることはない。メディアが忖度で骨抜きにされた情報を出している横で、SNSではユーザーが本音をぶちまけている。

この構図を目の当たりにしたとき、なんとなくメディアよりもSNSのほうが健全に見えてしまうのだ。本来なら逆であるべきなのに。

改めて思う。「報道の自由」とは何なのだろうか。「何を書いてもいい」という話ではない。違和感を違和感のまま出せるかどうか。現場で揺れた温度を、そのまま残せるかどうか。その余白があるかどうか。それだけのことだと思う。

その余白がなくなった原稿は、たしかに完成している。でもそれは、もう報道ではない。

AIの時代に人間が書く意味があるとすれば、それは完璧な文章を書くことじゃない。迷っていること。感情が混ざっていること。結論が少し歪んでいること。その不完全さが、現場にいた証拠になる。そういった綻びが面白くもあり、読み手の心に引っかかる。AIにはそれができない——。というか、する必要がない。

この仕事を続けてきたのは、自分の目で見たことを自分の言葉で届けられると信じていたからだ。その信頼が揺らいだとき、書き手には何が残るのか。

きれいに整頓された世界を目指すのなら、たぶん、もう泥臭い人間はいらない。悩みながら書く書き手も、現場で立ち止まる記者も、感情を持ち込むライターも、邪魔になる。全部AIでいい。そのほうが速くて、正確で、誰も困らない。

本当にそれでいいなら——、だけど。